1978~1979年のジュリーはすごい。。。
あらためて検索してみて驚きました!(@_@;)
1978年1月21日 サムライ
1978年1月21日 IN THE CITY 西ドイツでのみリリース
1978年5月21日 ダーリング
1978年8月1日 ヤマトより愛をこめて
1978年9月10日 LOVE (抱きしめたい)
1979年2月1日 カサブランカ・ダンディ
この怒涛の1年を経て
めでたくマモルはメジャーデビューを果たします!
(ジュリーとのエピソードを色々と聞いてますが
それはまた後日~!)
芸名は「西沢守」
デビューシングルは「レッドタイフーン」!
めっちゃアイドルやん!
所属は井上堯之バンド の事務所で
「ウォーターエンタープライズ」
私はてっきり「ナベプロ」やとばっか思ってました。
1980年はキョーレツなアイドルが
ワンサカ出た年でもあります。
聖子ちゃん、トシちゃん・・
デビュー音源を何年か前にもらって
「
きっとトシちゃん並みにwドへたで笑かすんやろな・・」
と思いながら聞いてみたら
「え?な~んや普通に上手いやん」と笑えず・・ヽ(^o^)丿
B面は「酔ってなけりゃいられない」
作曲はなんと!大野克夫さん!
が、しかし21歳のマモルには
ちと大人っぽすぎた感ありかな?。。


2曲目は映画のテーマ曲?「エデンの園」
どこのどなたかがUPしてくれてはった!
(これリメイクしたいんですけどね~)
そして、この頃から西沢守は
ドラマへも多く出演するようになります。
つづく・・・
あらためて検索してみて驚きました!(@_@;)
1978年1月21日 サムライ
1978年1月21日 IN THE CITY 西ドイツでのみリリース
1978年5月21日 ダーリング
1978年8月1日 ヤマトより愛をこめて
1978年9月10日 LOVE (抱きしめたい)
1979年2月1日 カサブランカ・ダンディ
この怒涛の1年を経て
めでたくマモルはメジャーデビューを果たします!
(ジュリーとのエピソードを色々と聞いてますが
それはまた後日~!)
芸名は「西沢守」
デビューシングルは「レッドタイフーン」!
めっちゃアイドルやん!
所属は井上堯之バンド の事務所で
「ウォーターエンタープライズ」
私はてっきり「ナベプロ」やとばっか思ってました。
1980年はキョーレツなアイドルが
ワンサカ出た年でもあります。
聖子ちゃん、トシちゃん・・
デビュー音源を何年か前にもらって
「
きっとトシちゃん並みにwドへたで笑かすんやろな・・」
と思いながら聞いてみたら
「え?な~んや普通に上手いやん」と笑えず・・ヽ(^o^)丿
B面は「酔ってなけりゃいられない」
作曲はなんと!大野克夫さん!
が、しかし21歳のマモルには
ちと大人っぽすぎた感ありかな?。。


2曲目は映画のテーマ曲?「エデンの園」
どこのどなたかがUPしてくれてはった!
(これリメイクしたいんですけどね~)
そして、この頃から西沢守は
ドラマへも多く出演するようになります。
つづく・・・
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1978年からジュリーに付いた
守青年は19歳になっていました。
付いて、最初の曲は「サムライ」
上半身素っ裸のジュリーの肌に
守がバラの絵を描いて行ったそうです。
その作業を命じられたときは緊張で
手が震えたと言ってました。
ええなぁ。。。。
言うてくれたら変わってあげたのに~(@_@;)

それに守本人も、私が思ってた通り
ファンの女の子に認知度も上がり(笑)
「マモちゃ~ん」とか「マモルく~ん♡」
の声が聴かれるようになって来ました。
私は1978年には全国に42店舗を構えた
チェーン店のアパレルの
バイヤーのアシスタントとして就職。
(美容師になろうかとも思ったけど(母が美容院経営)
修行する根性なし((+_+))
その頃、地元の友人がローディに入ったり(
知り合いが多くて遠慮した)
やっぱり就職してからは「
仕事を休んでまで」はジュリーに行かなくなり
頻度はかなり減ってきました。
このの写真はあの頃ジュリーが夏のツアーの前に行なってた
「つま恋」での合宿風景。
お揃いのショートパンツが良かったのと
アクティブな4人組が面白そうやったらしく
ジュリーを撮影してるカメラマンさんが
私たちを撮ってくれたりのそんなエピソードもありました。

そしてこの頃、最高に忙しかった
沢田研二に付いたマモルは
それこそ寝る間も無かったそうで
お風呂のないアパートでの生活は
それはそれは大変やったろうと思います。
つづく・・・
守青年は19歳になっていました。
付いて、最初の曲は「サムライ」
上半身素っ裸のジュリーの肌に
守がバラの絵を描いて行ったそうです。
その作業を命じられたときは緊張で
手が震えたと言ってました。
ええなぁ。。。。
言うてくれたら変わってあげたのに~(@_@;)

それに守本人も、私が思ってた通り
ファンの女の子に認知度も上がり(笑)
「マモちゃ~ん」とか「マモルく~ん♡」
の声が聴かれるようになって来ました。
私は1978年には全国に42店舗を構えた
チェーン店のアパレルの
バイヤーのアシスタントとして就職。
(美容師になろうかとも思ったけど(母が美容院経営)
修行する根性なし((+_+))
その頃、地元の友人がローディに入ったり(
知り合いが多くて遠慮した)
やっぱり就職してからは「
仕事を休んでまで」はジュリーに行かなくなり
頻度はかなり減ってきました。
このの写真はあの頃ジュリーが夏のツアーの前に行なってた
「つま恋」での合宿風景。
お揃いのショートパンツが良かったのと
アクティブな4人組が面白そうやったらしく
ジュリーを撮影してるカメラマンさんが
私たちを撮ってくれたりのそんなエピソードもありました。

そしてこの頃、最高に忙しかった
沢田研二に付いたマモルは
それこそ寝る間も無かったそうで
お風呂のないアパートでの生活は
それはそれは大変やったろうと思います。
つづく・・・
Mさんと知り合ったのは1976年。
短大に入る前の春休み。
Mさんからの付き人の話は「勝手にしやがれ」が
レコード大賞取った後くらいかな?
そうして1978年にボストンバック(
キャリーバックなんてない時代です)と
2万円だけを握りしめ
守少年は親に勘当同然で(後でそのこと聞いた)
大阪から上京したのでありました。
ジュリーとの面接があると言うので
事務所でドキドキしながら待ってると
しばらくしてジュリー登場!
何聞かれるんやろう・・と
心臓バクバクの守少年に
ジュリーが開口一番
「ジブン、野球できるか?」
やったそうな(笑)
「はい!出来ます」
そりゃそうや甲子園常連校の野球部やってんもん。
その頃のジュリーは
「JULIE'S」って野球チーム持ってたから
即戦力になるのは間違いなし!
と思ったか思わんかったか(笑)
野球の件で採用になったかは
定かではないけれどその場で決定!

しかし、住むところも決めてないまま上京。
親からは勘当同然で
東京の親戚を頼るな!と釘をさされた守少年の付き人生活は
ローディさんの自宅の仮住まいから始まりました。
つづく・・・
短大に入る前の春休み。
Mさんからの付き人の話は「勝手にしやがれ」が
レコード大賞取った後くらいかな?
そうして1978年にボストンバック(
キャリーバックなんてない時代です)と
2万円だけを握りしめ
守少年は親に勘当同然で(後でそのこと聞いた)
大阪から上京したのでありました。
ジュリーとの面接があると言うので
事務所でドキドキしながら待ってると
しばらくしてジュリー登場!
何聞かれるんやろう・・と
心臓バクバクの守少年に
ジュリーが開口一番
「ジブン、野球できるか?」
やったそうな(笑)
「はい!出来ます」
そりゃそうや甲子園常連校の野球部やってんもん。
その頃のジュリーは
「JULIE'S」って野球チーム持ってたから
即戦力になるのは間違いなし!
と思ったか思わんかったか(笑)
野球の件で採用になったかは
定かではないけれどその場で決定!

しかし、住むところも決めてないまま上京。
親からは勘当同然で
東京の親戚を頼るな!と釘をさされた守少年の付き人生活は
ローディさんの自宅の仮住まいから始まりました。
つづく・・・
お久しぶりです~。
最近はfacebookに投稿することが多くて
ブログの方はご無沙汰でした。
6月30日に『西澤守・ならまちタンゴVol.2」を
奈良のならまちセンターで開催することになりました。
そのコンサートでfacebookの方々がお手伝いをと、
おっしゃって下さっています。
しかし、マモルさんと私の経緯は皆さんあまりご存じなく
なんで服屋がアルゼンチンタンゴなのか?
昔からの友人・知人の方々ならなぜ私が
マモタン♪(タンゴ歌手西澤守のマネージメント)
をしているのかは耳タコなくらい聞かされてると思うけど
、ここでも書いてみようと思います。
私と守(年下なんでプライベートの時は呼び捨てw)
が知り合ったのは
ジュリーのファンの友人を介してやったと思う。
守もジュリーファンで気が付けばそこにいた。
18歳のころから
ちょこっと遠出の追っかけまがいの事をしてた時に
スタッフのM本さんと懇意になり
「ジュリーの付き人探してるんだけど
誰かいない?」と聞かれ
将来的には芸能界と言うところで
デビュー出来るかも知れないと!(^^)!
その時に、即答したかどうかは定かではないけど
「いる!」
守に「アンタ
ジュリーの付き人に行ってき~!(行っておいで)」
18歳の守は背は高いし足も長い
髪はロン毛で甘いマスク(笑)
しかもスリムで
ロック歌手目指してたんでそこそこ歌も歌える。
鶴瓶さんのやってた、視聴者参加番組の
バンド大会で優勝してたし。
高校野球児やったけど、躰を壊して挫折。
これは行くしかないやろうと
子供心に思ったんでした。
つづく・・
最近はfacebookに投稿することが多くて
ブログの方はご無沙汰でした。
6月30日に『西澤守・ならまちタンゴVol.2」を
奈良のならまちセンターで開催することになりました。
そのコンサートでfacebookの方々がお手伝いをと、
おっしゃって下さっています。
しかし、マモルさんと私の経緯は皆さんあまりご存じなく
なんで服屋がアルゼンチンタンゴなのか?
昔からの友人・知人の方々ならなぜ私が
マモタン♪(タンゴ歌手西澤守のマネージメント)
をしているのかは耳タコなくらい聞かされてると思うけど
、ここでも書いてみようと思います。
私と守(年下なんでプライベートの時は呼び捨てw)
が知り合ったのは
ジュリーのファンの友人を介してやったと思う。
守もジュリーファンで気が付けばそこにいた。
18歳のころから
ちょこっと遠出の追っかけまがいの事をしてた時に
スタッフのM本さんと懇意になり
「ジュリーの付き人探してるんだけど
誰かいない?」と聞かれ
将来的には芸能界と言うところで
デビュー出来るかも知れないと!(^^)!
その時に、即答したかどうかは定かではないけど
「いる!」
守に「アンタ
ジュリーの付き人に行ってき~!(行っておいで)」
18歳の守は背は高いし足も長い
髪はロン毛で甘いマスク(笑)
しかもスリムで
ロック歌手目指してたんでそこそこ歌も歌える。
鶴瓶さんのやってた、視聴者参加番組の
バンド大会で優勝してたし。
高校野球児やったけど、躰を壊して挫折。
これは行くしかないやろうと
子供心に思ったんでした。
つづく・・